中国ドラマ「宮廷の茗薇」の登場人物は実在するの?歴史上の人物との違いは?

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宮廷ドラマ

中国の歴史ドラマを見るときに、実際の歴史とどこが同じで、どこがフィクションなのかと気になりませんか?

私は、歴史ドラマを見るときには、「史実ではどうだったのかなぁ」といつも考えてしまいます。

史実を知っていると、歴史ドラマもより楽しむことができますよね。

今回は、康熙帝の時代にタイムスリップしてしまった現代女性の話「宮廷の茗薇」の登場人物は、実在するのか?また、歴史上の人物とどこが同じでどこが違うのか?ということを見ていきたいと思います。

この記事は、ネタバレと個人的な見解が含みますので、ご注意ください。
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中国ドラマ「宮廷の茗薇」の登場人物

では、さっそく中国ドラマ「宮廷の茗薇」の登場人物は、実在するのか、実在するとしたら、どんな人物で、「宮廷の茗薇」に登場する人物とどう違うのかを一人一人見ていきましょう。

雅拉爾塔(ヤラルタ)茗薇(めいび)/兆佳(ジョーギャ)魚寧(ぎょねい)

「宮廷の茗薇」の主人公は、現代の女性で、本当の名は「徐薔薇(じょ・しょうび)」と言いますが、タイムスリップした先で、自分にそっくりな女性の身代わりとなって生きていきます。

その女性の名は、「雅拉爾塔(ヤラルタ)茗薇(めいび)」で、秀女から徳妃の侍女になり、その後、第十三皇子の嫡福晋になりますが、罪をかぶって死罪になってしまいます。

第四皇子の助けにより、死罪となりながらも生き永らえた茗薇は、色々あった後、改めて馬爾漢の娘として「兆佳(ジョーギャ)魚寧(ぎょねい)」という名前を賜り、第十三皇子に嫁ぐのでした。

歴史上では、この「兆佳」氏が、第十三皇子の嫡福晋なので、確かに実在したことになります。

でも、歴史上では康煕44年に17歳で第十三皇子に嫁ぎ、その後、5男2女をもうけ、乾隆帝の時代の78歳まで長生きした女性でした。

茗薇は、子どももできなかったし、そもそも現代に戻ってしまうので、設定自体は同じでしたが、ほとんどがフィクションでしたね。

タイムスリップ自体がフィクションだから、当たり前なのですが…。

ドラマの中では、300年前の時代で結ばれた茗薇と第十三皇子は、あまり幸せな時間がなかった気がしますが、歴史を知り、たくさんの子どもがいることがわかると、茗薇と第十三皇子を想像して、ドラマとは違うストーリーが目に浮かんできますね。

第十三皇子

「宮廷の茗薇」での第十三皇子は、第四皇子と共に皇太子派についていて、いつも第十四皇子と対立している聡明な皇子ですね。

茗薇への一途な愛を貫き通し、康熙帝からも一目置かれるような存在でした。

実際の第十三皇子はどうだったのでしょうか。

康熙帝の第十三皇子と言われる胤祥は、実は皇子としては22番目の子でした。
成人した皇子として十三番目ということで第十三皇子と呼ばれているようですよ。

胤祥が13歳の時に生母を亡くし、それからはドラマ同様に、第四皇子の生母である徳妃に育てられました。

ドラマでは皇太子派とされていますが、歴史上では第四皇子派であり、皇太子派というわけではなかったようです。

でも、皇太子を可愛がっていた康熙帝の手前、第四皇子は表向き皇太子派を装っていた可能性はあるので、そういう意味では、胤祥も皇太子派だったのかもしれませんね。

また、ドラマでは茗薇だけを愛しているような感じですが、ちゃんと側室や妾がいて、割と子だくさんでした。
ただ、兆佳氏との間にできた子が一番多いため、やはり兆佳氏を一番寵愛していたのではないかと考えられますね。

そして、ドラマ同様に、第四皇子が皇帝になってからもずっと信頼をされていたため、他の兄弟が「胤」の字から「允」と名前を変えられたにもかかわらず、胤祥だけは後に「胤」の字に戻すことを認められています。

雍正帝を支えた臣下として大きな功績があるのでしょうね。

また、ドラマ内でも出てきましたが、足が悪くなってしまうのは、歴史上でも同じようで、現代の小薇が知っていた話は事実のようですよ。

どのドラマに出てくる第十三皇子も、一見遊び人なんだけど、実はとても義侠心が強いという印象ですが、今回も結構無茶はするけど、国のことをしっかり考えている素敵な男性でしたね。

実際の第十三皇子の性格は不明ですが、後に雍正帝となる第四皇子から信頼を得て、つき従っているところを見ると、先見の明があり、一本気な男性だったのではないかと考えられます。

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第四皇子

「宮廷の茗薇」での第四皇子は、皇位を狙っているけど、その思いをむき出しにせず、胸に秘めて皇太子派に属しているちょっと裏がある皇子でしたね。

また、未来から来た一風変わった小薇(茗薇)のことを好きになって、あきらめきれずに第十三皇子との仲が少しおかしくなってしまう、一途な男性でした。

また、不正をしている人は、身内でも容赦しない冷酷な一面もありましたね。

実際の第四皇子は、やっぱり容赦ない人だったみたいですね。

皇位に座に就くために尽力してくれた年羹堯やロンコドを後に、処刑したりしています。

このドラマでは、実在する嫡福晋や年氏も出てくるので、他のドラマと共に考えると面白いですね。

私の印象としては、たくさん后妃はいたけど、孤独な人という印象の皇帝です。

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第十四皇子

「宮廷の茗薇」での第十四皇子は、第四皇子と同腹の兄弟でありながら、第四皇子と対立する第八皇子派に所属しています。

また、第十三皇子とは何かと張り合うライバル的な存在として描かれていますね。

実際に、第十三皇子とどういう関係だったかはわかりませんが、2つ違いの兄弟だったようなので、近い存在ではあったのでしょう。

歴史上でも第八皇子派だった第十四皇子は、第四皇子と同じ母を持つ兄弟なのに仲が悪かったようです。

また、第八皇子が失脚した後は、第十四皇子を皇太子にしようとする動きが出てきたドラマの内容と史実はあっているようですね。

ただ、雍正帝が皇位についてからは、特に謀反などを起こしたわけでもないのに、派閥の残党が結束してはいけないと考えた雍正帝は、同腹の弟の第十四皇子でさえも幽閉してしまったみたいですよ。

乾隆帝時代には釈放されていますが、同じ母から生まれた兄弟にも容赦ない雍正帝だったから、清朝の基盤を作れたのかもしれませんね。

また、雍正帝と第十四皇子は、年齢も10歳くらい離れていたので、実際のところはバチバチするほどのライバル関係ではなかったのではないかなと思います。

第八皇子派に所属したことによって、雍正帝からよく思われなかったという事なのでしょうね。

雅拉爾塔(ヤラルタ)茗慧(めいけい)

「宮廷の茗薇」にでてくる茗薇の腹違いのお姉さんの雅拉爾塔(ヤラルタ)茗慧(めいけい)は、ドラマのオリジナルキャラクターだと考えられます。

後に第十四皇子の嫡福晋になる茗慧ですが、実際の第十四皇子の嫡福晋は、完顔氏となっています。

そもそも、康熙帝の皇子の嫡福晋は、相当な身分の嫡子じゃないとなれないと思うので、庶子が第十四皇子の嫡福晋になることは、史実だとかなり異例のことだと考えられますね。

「宮廷の茗薇」では、茗慧というキャラクターは重要なポジションにいて、いないとドラマ自体が成り立たない役となっていますよ。

第二皇子/皇太子

「宮廷の茗薇」にでてくる皇太子(第二皇子)は、他のドラマと比べて、頼りなく優柔不断な感じがします。
皇太子という立場を鼻にかけているというよりは、皇太子というプレッシャーに常におびえているという印象でした。

実際の皇太子は、どちらかというと他のドラマのように、皇太子であることで強気になって特別意識が強く、横暴に過ごしていたのではないかと思われます。

まだ物心がつかない2歳から皇太子と崇められていたら、そのような性格になっても仕方がないように思えますが…。

史実では、皇太子をずっと支えていたソンゴドゥという伯父がクーデターを起こしたことがきっかけとなり、自暴自棄となった皇太子を見かねた康熙帝が皇太子を廃し、その後一度は復位するものの、また派閥を作ったことで康熙帝の逆鱗に触れ、本当に廃され、幽閉されてしまったみたいですよ。

その後、雍正帝が皇位を継ぐまで生存していましたが、雍正帝の時代になって次の年に獄中で死亡したようです。

「宮廷の茗薇」では、小春のために謀反を起こすも失敗に終わり、その罪を伯父がかぶって処刑され、その後復位するも、第十三皇子のために自ら皇太子の座を降りるという役になっていますね。

あまり横暴なイメージはなく、いい人という印象でした。

第八皇子

第八皇子は、雍正帝が出てくるドラマでは欠かせない存在の人物ですね。

「宮廷の茗薇」では、ほぼ史実と同じ感じで登場し、皇太子の座を虎視眈々と狙い、様々な策を練って、なんとか自分が皇太子になれるように根回しをしていました。

実際に、皇太子が廃されたときに、人心を得ていた第八皇子は、大勢の支持者から次の皇太子に推挙されたようですよ。

でも、派閥が嫌いな康熙帝にはその作戦は通用せず、むしろ嫌煙され、皇太子になる事は絶望的になりました。

しかし、もともと、第八皇子の生母は辛者庫という宮女の中でも最下層の地位だったため、どんなに支持者を集めても第八皇子が皇帝になるのは難しかったと考えられます。

清朝では、母親の身分は相当重要視されていたため、さすがに康熙帝も辛者庫出身の母から生まれた子を皇太子にはできなかったのではないでしょうか。

自分が失脚した後は、ドラマと同じように第十四皇子を皇帝にしようと支持をしていたようです。

また、雍正帝時代になった時には、第八皇子派の残党がたくさんいたためか、最初は雍正帝を補佐する四人の重要な大臣?のひとりになりましたが、ことあるごとに雍正帝に叱責され、やがては爵位もはく奪され、幽閉されて、「アキナ(犬)」というあだ名までつけられてしまいました。

雍正帝にとって、人心を得ている第八皇子は脅威な存在だったのでしょうね。

理由をつけて悪者にしたかったのではないかと思われます。

実際に、第八皇子が雍正帝の皇位を奪おうとしていたかは謎ですが、史実的には悪い皇子というイメージがついてしまいましたね。

第九皇子と第十皇子

第九皇子と第十皇子は、史実と同様、第八皇子を支持する兄弟でした。

この時代のドラマを見ていつも感じますが、とにかく第九皇子は嫌な奴のイメージで、第十皇子は金魚のフンイメージです。

今回も当たらずも遠からずで、2人ともそんな感じでしたね。

とにかく、第四皇子が嫌いで思いのままに反発しまくり、でも父親の康熙帝の前では猫かぶり。

でも、実際の第九皇子は、実は頭が良くて戦車の設計とかしてたらしいですよ。

第十皇子も、皇子の中で最も母親の身分が高かったそうで、一目置かれていたという存在だったみたい。

そういえば、「宮廷女官若曦」での第十皇子は、そんなことを言われていたっけ。

後に、敵対していた第四皇子の治世になったことによって、この2人の皇子は歴史的にも良く描かれていないのでしょうね。

康熙帝

幼いころに皇位についた康熙帝は、祖母の厳格な教育を受けたことによって、賢帝だったと言われています。

最初のころは、大臣たちに実権を握られていましたが、15歳の時には、オボイという重臣をたおし、親政を行っています。

そのことを思えば、若いころから皇位についている康熙帝にとっては、「宮廷の茗薇」の頃の皇子たちへの期待はとても大きかっただろうと考えられますね。

康熙帝は、皇帝としてはとても功績を残した皇帝ですよ。

「宮廷の茗薇」では、晩年の頃なので、あまりそのような感じは出ていませんが…。

個人的な感想を言えば、康熙帝を演じている役者さんが、「明蘭」のどうしょうもない父親のイメージが強すぎて、賢帝のイメージが湧かなかったです。

でも、死ぬ間際に茗薇姉妹のことをちゃんとわかっていて茗慧を処分しようとしたところなんかは、やっぱり皇帝として見る目があるところをちゃんと出していましたね。

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徳妃

徳妃は、雍正帝と第十四皇子の母親ですが、身分が低い出だったらしく、康熙帝に嫁いできた当初は常在という妃嬪の中でもかなり低い地位でした。

次々に子どもができたことにより、妃の地位まで上り詰めはしましたが、康熙帝の在位中は、妃どまりでその上にはなれなかったようですね。

ただ、かなり多かった康熙帝の妃の中で、たくさんの子どもを産んだということは、かなり寵愛されていたという事がわかります。

色々なドラマで徳妃と雍正帝は確執があるように描かれていますが、「宮廷の茗薇」でも他と変わることなく、確執がありました。

徳妃は、自分の子どもの中で一番年少の第十四皇子を溺愛していたらしく、第十四皇子が皇位につくことを願っていたので、たとえ自分の息子でも第十四皇子の邪魔をする第四皇子が許せなかったのでしょう。

一時は皇太后になる事を拒んだほどなので、よっぽどのことがあったのかなと思わずにはいられませんね。

そんなこともあり、雍正帝は実は康熙帝から指名された後継者ではないのではないかという憶測が囁かれ、ドラマや小説になったりもしていますね。

でも、最近ではやっぱり、康熙帝が第四皇子を後継者に任命したという見方が有力のようですよ。

徳妃の思惑通り、第十四皇子が皇位にはつけませんでしたが、皇太后なれたのもつかの間、雍正元年に死去してしまいました。

徳妃が生きていれば、その後に兄弟たちに容赦ない処分をした雍正帝を少しは抑えられたかもしれませんね。

納蘭貴妃

「宮廷の茗薇」での納蘭貴妃は、この時代に妃の中での最上位となっていますね。

この時期に康熙帝の貴妃だったのは、後の愨恵皇貴妃(かくけいこうきひ)しかいないので、愨恵皇貴妃が納蘭貴妃のモデルになっているのかと思うのですが、名前で考えると、恵妃のようにも感じます。

納蘭は「ナラ」と呼べるのですが、満州人は漢字の文化ではないので「ナラ」を様々な漢字に当てはめて使用していたそうで、納蘭の他に那拉という漢字も使っていたようです。

そうなると、那拉氏である恵妃が納蘭貴妃のモデルとも考えられますよね。

納蘭容月が納蘭貴妃の姪として登場してくるのも、那拉氏であると考えるとつじつまが合います。

康熙帝の後宮には、那拉氏が数多くいたので納蘭容月がそのうちのひとりとも考えられると思います。

また、納蘭貴妃は、子どもはいないことになっていますが、恵妃は第一皇子と呼ばれる最年長の皇子の母親でありました。

「宮廷の茗薇」には、第一皇子すら出てこないので、省略されたのかもしれませんね。

康熙帝のドラマによく出てくる納蘭明珠(ナーランミンジュ)と恵妃が兄弟や親子の設定は、史実では全く違うらしく、名字が同じでも血縁関係はなかったようです。

ただ、明珠が第一皇子を指示していたことと恵妃が第一皇子の母親ということで、そのような設定のものが多いみたいですよ。

上記のことを考え合わせると、「宮廷の茗薇」での納蘭貴妃は、愨恵皇貴妃と恵妃を足したような存在だったのではないでしょうか。

そして、物語終盤の皇太后になった徳妃と太妃となった納蘭貴妃の立場逆転は、中国の後宮の生末が見えた一幕でしたね。

皇帝である夫が死んでしまうと、子どもがいない妃は形勢逆転され、落ちぶれていくということを強調した演出でした。

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中国ドラマ「宮廷の茗薇」の登場人物は実在するの?【まとめ】

今回は、中国ドラマ「宮廷の茗薇」に出てくる歴史上の人物は、実在するのか、また実在するとしたら、ドラマとどこが違うのかについてみていきました。

個人的には、「宮廷の茗薇」では、意外と史実に忠実な演出がなされていたのかなと感じました。

そもそも、歴史が好きな女の子が過去にタイムスリップしてしまうという設定なので、歴史に詳しい主人公が知っている世界じゃないとおかしいですよね。

そこで、だいたいの筋は変えず、オリジナルキャラクターを交えて描かれたのですね。

中国の歴史が好きな方は、史実に基づいたフィクションの「宮廷の茗薇」も楽しく視聴することができると思います。

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