時代劇のドラマを見ると、ドラマで出てくる事柄は、史実でも本当にあった出来事なのか気になったりしませんか?
わたしはすぐにそんなことが気になってしまい、調べるのが大好きです。
今回は、「女医明妃伝」の気になる出来事を調査してみたので、紹介しようと思います。
中国歴史ドラマは、もちろんドラマを見るだけでも楽しいのですが、史実や他のドラマと比較して視聴してみると、また一味面白味が加わりますよ。
允賢のモデルになっている談允賢と杭皇后ってどんな人?
主人公である允賢は、医者の家系に生まれ医術を祖母から学ぶという、この時代では稀な女医でした。
実は、歴史上でも女性の身分がとても低かったこの時代に女の医者は珍しかったようです。
モデルとなった談允賢は、そんな中でも女医として名を遺すほど名医だったようですよ。
実際には、杭皇后より後の時代に生まれ、90歳以上も生きたのだとか…。
ドラマでの允賢のように、いろんな人から白い目で見られながらも、医術に励んだ素晴らしい方だったのでしょうね。
一方、杭皇后はというと、もともと貴妃だったのが、皇子を生んだことにより皇后にたてられた人です。
朱祁鈺は、最初は祁鎮の息子である朱見深を皇太子にたてていましたが、そのうち自分の息子を皇太子にたてたくなります。
当時の汪皇后は反対しますが、祁鈺は自分の考えを曲げずに、汪皇后を廃し、杭皇后を立てその息子を皇太子にしてしまいました。
でも結局は、息子も杭皇后も祁鈺よりも先に死んでしまうのですよね…。
実際の杭皇后はどんな人だったのかはよくわかりませんが、この流れで考えると、祁鈺と同じく権力に魅了されてしまった人なのではないかと思わずにはいられません。
その後、英宗である朱祁鎮が皇帝に返り咲いた後、皇太子の件で杭皇后に恨みがあったのか、祁鎮は杭皇后の墓を暴いて辱めたと言われています。
「女医明妃伝」とは全く逆の感情がそこにはあったということですね。
朱祁鎮と朱祁鈺はどんな皇帝だったの?
朱祁鎮と朱祁鈺、この2人の兄弟は、どんな皇帝だったのか?
もうお分かりだと思いますが、歴史的にもろくでもない皇帝たちでした。
朱祁鎮は、早くに父親を亡くしたせいで9歳から即位し、太皇太后や大臣たちに支えられてなんとかやっていましたが、その太皇太后がいなくなり大臣もいなくなってからは、ドラマ同様、宦官の王振を信頼しすぎてめちゃくちゃでした。
だから、前代未聞の皇帝が捕虜になるという事件が起きてしまうのですが…。
ドラマの中では、捕虜から帰ってきた後、皇帝に返り咲いてからは賢帝になったかのように描かれていましたが、実際には「土木の変」が起こった時に北京を死守してくれた功臣の于謙(「女医明妃伝」では、允賢の義父にあたる人?)を処刑したりとひどい仕打ちをしているので、あまり性格も変わっていなかったような気がします。
ただ、それまで当たり前だった殉葬を廃止したことは、功績と言えば功績ですが、弟の朱祁鈺への恨みは相当で、弟が死んだときには、その時の寵妃を殉葬させたという逸話も。
なんか、皇帝のくせに弟に恨みを持って、弟の時代の大臣たちを一掃したり、皇后の墓暴いたりとか、器の小さい男だと感じてしまいますよね。
そして、弟の朱祁鈺はというと、たぶん基本的にはドラマのままなのだと考えられます。
とにかく、権力に目がくらみ、上皇として帰って来た兄を幽閉して朝廷とかかわりを持たせないようにしたり、兄に力を持たせないように必死でした。
そんなことしないで、お互いに協力していれば、後々まで悪名を轟かせなくて済んだかもしれないのに、哀れとしか言いようがない兄弟ですね。
銭皇后と汪皇后はどんな皇后だった?
「女医明妃伝」の中では、サブ的な存在だった朱祁鎮の皇后である銭皇后と朱祁鈺の皇后である汪皇后とは本当はどんな皇后だったのかも、少し気になったので調べてみました。
まず、銭皇后は、ドラマと同じく祁鎮を一途に愛した女性でした。「土木の変」で夫である祁鎮が捕虜になったほか、実の兄2人も戦死してしまい、絶望の淵に立たされ日々泣き続けた結果、足に障害を持ち、右目を失明するなど散々な姿に…。
そんな皇后を見た祁鎮は捕虜から釈放された後も見放さず、皇帝に返り咲いた時にはまた皇后にたてたそうです。
皇帝としてはとんでもないけど、ひとりの男としては意外といいとこありますね。
ただ、ドラマとは違い、皇太子になった朱見深は銭皇后の子ではなかったため、祁鎮の死後は朱見深の実母である周貴妃と折り合いが悪く、銭皇后死後、祁鎮が遺言で残した合葬は実現されなかったそうですよ。
そして、ドラマの中では悪女としか言いようがない汪皇后ですが、実際は良妻だったと言われています。
真実はわかりませんが、祁鎮の息子である皇太子を廃そうとしたときに反対したことから、良妻と言われているのかな。と勝手に思ってしまいました。
でもドラマと同じ性格だったら、祁鈺の息子であっても、自分の息子ではない子どもを皇太子にたてると言われたら、とりあえず反対するのでは?と思いますが…
実際に、気性の荒い性格だったのは間違いないようなので、良妻と言われる所以はなぞですね。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「女医明妃伝」の登場人物が、史実ではどんな人だったのかしらべてみました。
史実では、人の性格まではあまりわからないため、起こった出来事で判断するしかありませんが、「女医明妃伝」での人柄と史実は基本的にはあまり変わっていない感じがしましたね。
他にも気になることがある方は、是非、中国の歴史を調べてみてください。
ドラマとは違った面白い話を発見できるかもしれませんよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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